死は全ての人にいつか必ず訪れる
現在、私公務員Yは、住民の死に多く接する職場で働いています。
そうすると、「毎日こんなにも多くの人々の人生が閉ざされているんだ。」と感じることが多々あります。
さらに言うと、割合的にはもちろんほんの一部ですが、自分と同年代、場合によってはより若年での死を迎えた方の情報を受け取ることもあります。
そうした際にふと考えるのが、仮に今自分が死を迎えた場合、幸せだったと言えるのかということです。
私の家庭は、両親の仲はそれほど良くはなかったですし、躾もTHE昭和的に厳しかったうえ、それほど裕福な暮らしが出来た記憶も無いですが、それでも愛情は注いでいただいたと感じますし、大学まで行けたことは非常に感謝しています。
また、学業関係では陰の民としての範囲内で、スポーツから勉学まで、満喫はできたと思います。
そして、現在とも言える労働関係ですが、ここ数年の苦痛な状況を除けば、多少の負担はありつつも、ある程度はメリハリをつけて過ごすことはできていたと思います。
ただ、それでも週のほとんどは仕事をしている訳で、お金を稼いだとしても、たまの旅行くらいでしか有効に活用はできない状況でした。
この点について、普通は、将来退職した時まで蓄えておき、優雅な老後生活を楽しみにしておけば良いという結論に至るものと思います。
しかし、全員が優雅な老後まで生きているとは限らないわけです。
明日死ぬのは自分かもしれない
明日というのは言い過ぎですが、例えば10年や20年のスパンで見れば、事故や病気で死ぬ可能性は十分あるはずです。働き盛りで、プライベートよりも仕事を優先し、出世し、給料が上がり、ローンも完済の目途が立ち、子供もやっと独り立ちした、という矢先に倒れてしまうかも知れません。
そうした時、「仕事はツラいこともあったけど、充実もしていた。貯めたお金は活用し切れなかったけど、残った家族に資産を残せたから満足だ。」というメンタリティでいられるでしょうか。
私なら絶対に無理です。もちろん、現在の職場環境や精神状況に相当程度引きずられていることは認識していますが、それも含めて人生と考えています。
と言いますか、若いうちは仕事をした方が良い派の方々は、仮に余命が確実に知れるとした場合、以下のどの段階で労働の優先順位を下げるべき判断に至るのでしょうか。
- 余命1か月
- 余命1年
- 余命5年
- 余命10年
- 余命20年
- 余命30年
- 余命40年
平均寿命を踏まえると、大体の方が上記の選択肢の範囲内の推定余命と考えられますが、定年まで働いて当然であるとすれば、余命10~20年くらいまでは耐えられるんでしょう。
ただ、上記のとおり、現在のところ寿命は分かりませんし、よしんば命はあったとしても、体が満足に動くかは分かりません。
既に人生折り返し
個人的には、定年後の余生で散財するよりは、細々としていたとしても、苦痛から解放された生活を長く生きられた方が、今際の際に満足な人生を送れたと振り返ることができると予測しているので、可能な限り若年でのセミリタイアに向け、邁進する所存です。
以上、本日もここまでお読みいただき、ありがとうございました。また後日お会いできれば幸いです。
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